2020年4月17日

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」ですが、まさに私がこれまで書いてきた時代の話ですね。いわゆる「テレビドラマ」ですのでいろいろあれっと思うことは多いですが、まあ、あくまで「この物語はフィクションです」なので目くじら立てることはないでしょう。ただ愛知県史など最新研究ではだいぶん違っているので、今回はそのあたりを書いておきます。どうもドラマを史実と思ってしまう人が多いようなので。
このドラマ、すでに13回のストーリーが進んでいますが、まだ1547(天文16)年から3年ほどの間の話だけ。まさかこの時代をこんなに引っ張るとは思いもよりませんでした。織田信秀の活躍、若き信長の苦悩というあたりが毎週ドラマになるとは、と個人的には涙なしでは見られませんが、ちょっと歴史的な流れを整理してみたいと思います。なんかちょっと変だなあと思うこともありますので。
ドラマでは第二回で、1547(天文16)年に信秀が美濃へ攻め込んで大敗しましたが、史実ではこれは三年前の1544(天文13)年のことです。この戦いの以前に美濃の守護土岐家では、兄の頼武と弟の頼芸兄弟が守護の座をめぐって争っていましたが、1543(天文12)年に美濃国内の守護所があった大桑(岐阜県山県市)において頼武の息子の頼充と頼芸の間で大きな戦いがあり、負けた頼充はまず尾張へ逃れ、その後、母方の実家である越前の朝倉家に逃れました。頼武はすでに亡くなっており、頼充と頼芸の争いとなっています。頼充はドラマでは頼純という名で出てきますが、同じ人物です。
この頼充が1544(天文13)年になって、越前の守護朝倉氏と尾張の守護斯波氏の力を借りて、南北から井口を攻めたわけです。もちろん目的は守護になるためです。この時尾張斯波勢の大将は織田寛近でしたが、戦闘部隊のトップが信秀でした。そのため、信秀が美濃を手に入れようと攻めたとされているわけですが、実際には守護争いに介入しているだけです。この戦いではドラマと同じく頼芸をとりこんでいた守護代斎藤利政(のちの道三)が信秀軍に大勝します。信秀は弟の信康も討ち死にするという大敗でした。岐阜市内には戦死者を弔ったという織田塚も残っています。

その後、1546(天文15)年になって頼芸と頼充は和睦し、その証として、利政(道三)の娘が頼充(頼純)に嫁ぎます。これが後の帰蝶ですね。ここはドラマも忠実ですが、この話はまだここ10年ほどででてきた本当に新しい説で、これがドラマに取り入れられたのは驚きです。そして1547(天文16)年11月に頼充が24歳で死にますが、信長公記には毒殺と書いてあり、本当のことはわかりませんがドラマと同様だったのかもしれません。なお頼充の弟の頼香がこの後、信秀と共に兵を挙げたようですが、その頼香も利政から毒殺されたようです。土岐氏の直系である頼武の子供はここで利政から根絶やしにされたわけです。
美濃はそのような状況でしたが、三河ではこの1547(天文16)年に重要なことが起きています。9月に信秀は今川義元と示し合わせて、三河を矢作川を境に半分ずつ分けあうことにし、安城城を手に入れたのです。しかし、勢い余って矢作川を越え岡崎まで攻め入ってしまいます。岡崎城を落とされた広忠は竹千代を人質に差し出すことになります。信長もこれらの戦いに関連して初陣を果たします。ドラマではこのあたりはやっていませんね。
またドラマ第7回で1548(天文17)年の秋のこととされている信秀の大垣城支援出陣はこの1547(天文16)年の11月のことです。そして同じ頃、清須の守護代らによる古渡城攻撃もあります。清須守護代と利政との連携があったのでしょう。勝手に三河へ出ていく信秀への反発があったのかもしれません。翌1548(天文17)年3月に、義元との約束を破った信秀と今川勢が、三河の小豆坂(岡崎市)で戦い、信秀は負けました。この時、負傷したのかどうかはわかりませんが。これは第三回の話ででてきますね。竹千代(のちの家康)の父である松平広忠は、このあと義元に接近したと思われますので、そこはドラマと同様です。

つまり1547(天文16)年9月が信秀の絶頂期で、それから急速に信秀は没落していきます。清須守護代と対立し、小豆坂で負け、1548(天文17)年8月には頼充の弟の頼香を立てて美濃へ攻め込みましたが、やはり大敗したようです。このため第12回で切腹した家老の平手政秀が尽力して、1548(天文17)年9月に清須と和睦し、同時に美濃との和睦も進められました。この時に未亡人となっていた帰蝶と信長の婚姻も決められました。
49(天文18)年4月には信長が熱田八ヶ村へ制札を出しているので、信秀から織田弾正忠家の家督が譲られたようです。帰蝶との結婚もこの頃でしょうか。松平広忠もこの頃死んでいますから、ドラマのような信長による暗殺があったとは思えませんが、時期はあっていますね。第9回の放送です。信秀が古渡城から末盛城に移ったのもこの頃ですから、この移転は家督継承と関連するのかもしれません。斎藤利政はこれ以前に出家して、「道三」を名乗っています。そしてこの年6月ころから今川の三河進出が活発化し、ついに11月に安城が落城し、信長の庶兄信広が捕虜となります。そして竹千代との人質交換がされます(第11回)。

年が明け1550(天文19)年正月には尾張北部の犬山衆・楽田衆が春日井あたりへ攻め入ってきますが、これは信秀の弟信光が撃退します。そんな頃、道三は頼芸を追放します。ドラマではもう一年くらいあとになっていますが、追放はこの時期と考えられています。今川は5月頃から尾張国境地域や知多へ侵攻し、10月くらいまでには国境付近は今川方となってしまいます。信長にとっては大変な危機ですが、ここで将軍からの和議が出て、受け入れた今川勢は12月には撤退しますが、もちろん第11回のドラマのようにこれを行ったのは光秀ではありません。ドラマでは頼芸に将軍との間を取り持ってもらっていましたが、この時期にはすでに頼芸は追放されていますし。停戦調停は、幕府が義元を撤退させるので、その代わりに追放されていた頼芸を美濃へ復帰させるよう信秀に道三を説得させようとした、ということだったのです。この時期、光秀がどこで何をしていたかは全くわかりません。その意味では面白いドラマがまだまだ作れそうですね。
ドラマはこのあと1552(天文21)年3月3日信秀死去まで急に飛びます(信秀は1551年3月死去という説もありますからそちらをとっているのかもしれませんが)。さらにその年の信長による清須攻め(萱津の戦い)がチラッと出てきて、そして1553(天文22)年1月の平手政秀切腹があって、第14回では4月の正徳寺会見、そして翌年の村木砦の戦いと続くようです。だいぶんピッチが早まってますので桶狭間までもう少しですね。