中日Web「尾張時代の信長をめぐる」過去記事 

第26回 わずか80人で上洛した信長に暗殺団が仕向けられる

2013年6月23日1558年(永禄元年)の7月にあった浮野合戦で、尾張国内の最大敵対勢力であった岩倉織田信賢を下した信長はこの年満24歳。18歳で偉大な父、織田信秀の家督を継いでから6年をかけ、ついに事実上尾張を統一しました。これで尾張の...
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第25回 国内最大の敵、岩倉を浮野で破り、尾張統一目前の信長

2013年6月6日1558年、満24歳になる信長はこの年、攻勢を強めます。そこで2月には笠寺のあたりを、そして3月には瀬戸の品野を攻めます。両地域とも尾張でありながら今川勢が進出しており、失地奪還をはかったのでした。笠寺あたりははっきりした...
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第24回 嫡男信忠を産んだ信長最愛の人、吉乃(きつの)。その御殿があったのが生駒屋敷

2013年5月16日信長の正室といえば誰もが知っての通り「濃姫」です。斎藤道三の娘とされる濃姫は信長満14歳のころ、尾張との関係を友好に保つため、道三が送り込んだ人質です(現在では濃姫という名は文献上確認されていないとされる)。「ことあれば...
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第23回 再び謀反を企てた弟を暗殺。ダークサイド・オブ・信長

2013年5月4日1556年に稲生の戦いで勝利を収めた満22歳の信長。謀反の旗頭となった弟の信勝とその一派は、末森城で同居していた母の土田御前(信長の実母でもある)の仲介で信長に許しを請い、信長もそれを許しました。ところが翌年、信勝がふたた...
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第22回 若き織田信長が「おおうつけ」とよばれたわけは?

2013年4月21日今回もいただいたコメントにお答えしたいと思います。コメント:信長はうつけものと言われていますが、実際には本当は賢い人で人を欺くための演技だったと歴史の本などに書いてあります。本当はどうなのでしょうか?またどんな顔で背格好...
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第21回 信長が飛び込んだ蛇池は、名古屋市西区比良に今でもちゃんとあります

2013年4月10日さて今回は信長が泳いだことのある小さな池をご紹介しましょう。先回ご紹介した稲生の戦いが終わった頃のことと思われますが、比良城(佐々成政)の南にあった池に、恐ろしい大蛇が出るという噂が立ちました。大蛇に出会った村人によれば...
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第20回 大音声を発する信長と親衛隊、稲生の戦いで圧勝

2013年3月28日1556年、信長は満22歳です。斎藤道三の死後、家中に不穏な動きが出てきています。先回書いたように、清須城の信長に対し、庄内川から東の地域がほぼ反信長となってきていました。その勢力の中心は、信長の一番家老で那古野城を与え...
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第19回 道三死後、孤立を深める22歳の信長に謀反の危機が迫る

2013年3月15日1556年の4月に斎藤道三の弔い合戦に破れて清須へ戻ってきた満22歳の信長ですが、道三の後ろ盾がなくなったことで、いよいよ家臣の中からも、さらには織田一族からも反信長の機運が高まってきます。まずは尾張上四郡を支配するとさ...
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第18回 義父斎藤道三が討たれ、その弔い合戦に敗退して自らしんがりをつとめる信長

2013年3月5日1556年、信長は満22歳になります。この年の初めごろは、前年に敵今川方の三河方面担当である軍師雪斎が死んだこともあって三河方面を攻めていた信長ですが、その頃、頼りにしていた美濃の義父斎藤道三にも試練が襲っていました。息子...
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第17回 信長は桶狭間合戦の前に義元に会っていた!? 三河での守護会見

2013年2月21日この連載は信長家臣の太田牛一という弓の達人が書き残した信長の伝記「信長公記」を元に書いています。そこには信長が義元と顔を合わせたのではないか、と想像できる記述があります。それは1556年、信長22歳の時のことと思われます...
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第16回 初陣以来9年ぶりに三河吉良(西尾)へ侵攻した22歳の信長

2013年2月10日1556年(弘治2年)、この年信長は満22歳になります。清須城の信長は尾張下四郡(海西、海東、愛智、智多)を名目上支配していることになっています。(※笠寺界隈で優勢になり、このころまでに今川勢をかなり押し返していることは...
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第15回 清須城に入っても大ピンチの信長、叔父を暗殺して生き残りを図る!?

2013年2月1日1554年4月についに清須城に入った信長ですが、尾張の支配は、まだほとんどといっていいほどできてはいません。整理してみますと、尾張八郡の内、広い上四郡は岩倉の織田大和守家が引き続き抑えています。(※この見方は近年見直しが進...
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第14回 弟秀孝、庄内川で誤射殺される。怒りの信長、現場へ一騎駆け

2013年1月22日今回はまたまた1555年(弘治元年)、信長満21歳のお話です。この前年、叔父の信光が謀略でもって清須城を乗っ取ってくれたのが4月のことでした。その結果、信長が尾張の首都ともいえる清須の城へ入り、信光は信長のいた那古野城へ...
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第13回 織田信光の守山城は、徳川家康の祖父が殺された場所でもあった

2013年1月11日1555年(弘治元年)4月、叔父信光のおかげでまんまと清須城に入った満20歳の信長。1563年7月に小牧城へ移るまで、8年間の「清須城信長」の時代となります。桶狭間へもこの城から出陣しました。さてこの「清須城」ですが、「...
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第12回 信長といえば清須城、でも実は乗っ取りで手に入れたのでした

2012年12月31日先の清須中市場の戦いで手勢をすっかり失ってしまった守護代の織田信友と家老の坂井大膳は清須城にこもっていましたが、このままではまずいと、信長の叔父で守山城城主の織田信光に「信長を裏切って清須で守護代になってくれ」と誘いか...